世界の歴史〈16〉ヨーロッパの栄光 (河出文庫)
Kindleストア, 岩間徹
によって 岩間徹
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絶対主義への‘復帰’を強行したウィーン体制も、湧きおこる自由主義、ナショナリズムの嵐の中に揺れ動く。黒潮は果てしなく転回し文化は爛熟の妍を競い、やがてヨーロッパ旧体制への訣別は近い。
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著者は、東京女子大名誉教授で、専攻はロシア史である。曰く・・・ナポレオンが失脚し、その反動としてウィーン体制が確立したが、もはや絶対主義時代には戻らない。スペインやイタリアでも自由主義的蜂起が起こるが鎮圧される。特に、イタリアは、オーストリアの支配下にあるが、オーストリアのメッテルニヒは自由主義運動を押さえつける。それでも自由主義の底流は押さえつけ切れない。反動のウィーン体制時代にはナポレオンが自由の英雄として理想化され、ナポレオン崇拝があちこちで起こる。復位したルイ18世は欽定憲法を制定するものの王権確立を模索。その次のシャルル10世のときに反動強化となり、それに対して7月革命が勃発。ドラクロアの民衆を導く自由の女神の絵はこのときのもの。シャルル10世は退位。新憲法が制定され、遠縁のルイ・フィリップが即位。王権は大幅に制限される。ベルギーはもともとオーストリア領だったが、ナポレオンによりフランスに併合され、ウィーン会議の結果、オランダと合同してネーデルラント王国となった。しかし、人口比と議員比や負債比が合っていなかったり、宗教も言語も異なるのでベルギーが蜂起する。ベルギーは独立を宣言し、ザクセンから王を迎えて自由主義憲法をもつ王国になった。ポーランドやイタリア、スペインのように自由主義に移行できなかった国もある。自由主義の敵は絶対主義やカトリシズムだったが、いったん成立した自由主義の新しい敵が民主主義。民主主義もいろいろだが、もっとも極端なのが共産主義。自由主義と民主主義の闘争は、イギリスとフランスで特に発展した。一方、ルイ・ナポレオンはクーデターによる政権奪取を計画するが失敗して収監される。脱獄してイギリスに亡命。フランスは反政府派が蜂起し、ルイ・フィリップ退位。臨時政府が成立し、共和制となる。この共和国大統領の選挙で圧勝したのがルイ・ナポレオン。農民にとってナポレオンは伝説の英雄だったし、軍もナポレオンの栄光を偶像化、青年は戦争を忘れナポレオンを美化、というナポレオン崇拝の雰囲気があった。ルイ・ナポレオンはやがて議員や民主主義者、ジャーナリストを大量逮捕するクーデターを起こし、ナポレオン3世となる(第二帝政)。ウィーン会議以来、イギリスとロシアは対立。ロシアは凍らない海が欲しいが、この欲望は海洋国イギリスのインド航路を脅かしかねない。コンスタンティノープルと両海峡をどうするか、結局はトルコをどうするか、という東方問題に行き着く。イタリアではピエモンテという国(サルディニア王国)でヴィットリオ・エマヌエレ2世が即位。ダゼリオ、続いてカブールを起用し、イタリア統一に乗り出す。イギリスVSロシアのクリミア戦争ではイギリスに荷担し、イタリア解放を国際的に認識させる。カブールはナポレオン3世と安全保障契約を結び、オーストリアを挑発。まんまとナポレオン3世をオーストリア戦にひきずりこむ。オーストリアを追い払い、トスカナの人民も蜂起。ビエモンテとの合併機運が高まる。アンリ・デュナンによる赤十字社設立はこのときの戦争がきっかけ。オーストリアを破ったもののナポレオン3世はオーストリアと単独講和する。エマヌエレ2世は納得いかないがこれを呑む。しかし、この後にイタリア統一。更に、普墺戦争でヴェネチアを回収し、ローマも併合する。一方、オーストリアは、帝国機構を改革し、ハンガリーに自治権を与え、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼務することにより、領域内のマジャール民族に譲歩することで民族和解をした。フランスでは外交の失策つづきでナポレオン3世の権威が失墜する。勢いのあるビスマルク・ドイツは猜疑と嫉妬の対象。フランスは栄光を求める。このような下地があって普仏戦争勃発。ナポレオン3世は降伏し、第二帝政は廃止。パリ陥落。アルザス・ロレーヌ地方は割譲され、50億フランの賠償金を払うことになる。ビスマルクの圧力で国民議会成立。が、また混乱(ちなみにナポレオン3世は、イギリスに亡命し、復位を夢見たものの64歳で死去)。インドではセポイの反乱をイギリスが鎮圧。ムガール皇帝は追い出され、ムガール帝国滅亡。イギリス国王がインドを直轄統治するインド帝国が成立(1877年)。みたいな話。
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