戦国人物伝 淀殿 (コミック版日本の歴史)
本, 静霞 薫
によって 静霞 薫
4.4 5つ星のうち 2 人の読者
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内容(「BOOK」データベースより)織田信長の姪で豊臣秀吉の妻そして徳川家康の最後の敵!!著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)加来/耕三 歴史家・作家。1958年、大阪府大阪市生まれ。1981年、奈良大学文学部史学科卒業 静霞/薫 小説家・評論家・漫画原作者。現在は、滋慶学園グループ名誉教育顧問として、大阪コミュニケーションアート専門学校・東京コミュニケーションアート専門学校・名古屋コミュニケーションアート専門学校・福岡デザインコミュニケーション専門学校・仙台コミュニケーションアート専門学校などで、マンガ科・コミックイラスト科・ライトノベル科の学生指導にあたっている 瀧/玲子 少女誌でデビュー後、大阪コミュニケーションアート専門学校で講師を十数年つとめ、現在は名古屋コミュニケーションアート専門学校で講師として在籍(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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徳川家が政権を握って太平の「江戸時代」を迎えたため、その江戸幕府に逆らった豊臣家は「逆賊」として貶められている面は否定できない。戦国時代は女性の身分が低く、有名な大名家の姫や奥方であっても名前さえ判らない人が多い。そんな中にあって、茶々とその母親に当たる「お市の方」は織田信長の血縁関係ということもあって、殊更名高く注目される存在である。茶々の生涯は大きく分けて3つに分かれる。ひとつは父親である浅井長政や母親たちと仲睦まじく暮らしていた小谷の幼少時代。続いて、成長した後に豊臣秀吉の側室となり、嫡男の男子を2人産む。最後は、秀吉の死後、秀頼を養育したものの徳川家と戦いになり大坂城で敗れて自害するまでである。茶々の母親のお市の方は織田信長の妹であり、天下取りを狙う信長は近江の浅井長政を味方にする必要があったため、妹を嫁がせた。信長の義弟という立場から浅井家の扱いはよく、長政とお市の仲も円満で茶々は何不自由ない生活を送っていただろう。けれど、それが暗転したのは浅井家が織田を裏切り父祖からの縁のある朝倉家と結んだことにあった。長政自身は決して信長に反旗を翻す気はなかったんのだが・・・父の久政を始めとする重臣たちの意見を抑えられなかったことが滅亡に繋がる。反信長勢力の一角に名を連ねるが、浅井・朝倉家は真っ先に打ち破られてしまう。信頼していた義弟の裏切りは信長の怒りはよほど激しかったと見える。小谷城に長政は自害する。茶々は父親を7歳で失う。後に3度経験することになる落城の悲惨の最初であった。しかも信長の命を受けた秀吉に兄の万福丸を殺害された。茶々にとっては唯一の年長の兄弟である。茶々は頼れる存在を次々と失っていく。母親と茶々は妹たち共に信長に引き取られて育つが、今度は信長が本能寺の変で横死。俄かに周辺が騒がしくなってくる。母親のお市の方は信長の後継者として争う「柴田勝家」と「羽柴秀吉」の間で政治の道具とされる。広く流布しているのは、美人のお市の方に前々から秀吉は執着していて、それを勝家に嫁ぐことになったので憎しみが強まったという説。また、お市の方も小谷城落城の折に長男の万福丸を密かに逃していたものを、秀吉が捕えて信長の命で処刑したため恨んでいて、秀吉を嫌っていたとも伝わる。この話でも甥っ子に当たる信長の三男・織田信孝の仲介によって柴田勝家と婚姻したと描かれている。だが、近年の研究では「秀吉の仲介」での婚姻であったという書簡が発見されており、秀吉の横恋慕説はフィクションの模様。秀吉と勝家の対立は賤ヶ岳の戦いで勝家の敗北が決まり、勝家とお市の方は自害して果てる。だが、茶々と妹のお初・お江の三人は秀吉の下へと届けられた。父と兄と母親の仇にも当たる秀吉の庇護を受けなければいけない三姉妹の胸中は複雑であっただろう。やがて成人した姉妹であるが、何故か妹であるお初・お江のほうが先に秀吉の命で嫁ぎ、茶々が最後に残った。秀吉は茶々を側室に迎えようとしていた。天下人である秀吉の側室であれば栄耀栄華は思うがまま。戦国の世を女性が生き抜くには「後ろ盾」となる男性の存在が必要であったし、何よりも浅井家の血を後世へ残してほしいという亡き両親の希望もあっただろう。無理矢理でも自身の奥に潜む気持ちと折り合いを付けねば生きては行けなかった。やがて茶々は秀吉の後継ぎとなる男子を生む。秀吉には多くの側室がいたが子供を生んだのは茶々だけ。本当に秀吉の子供であったのかは疑問は残るが・・・案外、秀吉自身はそんなことも承知の上で「自身の後継ぎ」して喜んだのかもしれない。後継ぎがいなかった秀吉の政権は不安定であったから、自分の実子であるのかどうかはどうでも良かったのではなかろうか?その辺りは茶々のみが真実を知るというところであったろうが。茶々の両親の命を奪った戦国の世も徐々に終結へと向かってはいたものの、秀吉の天下統一後も大陸への朝鮮出兵などで落ち着かなかった。せっかく産んだ長男の鶴松は病死し、落胆した秀吉は甥の秀次に関白職を譲って「太閤」となる。けれど、運命のいたずらなのか茶々は再度妊娠し、男子を出産する。これが後の豊臣秀頼である。秀吉はその後からおかしくなり、関白を譲った甥の秀次に謀反の疑いを掛けて切腹に追い込んだ。秀頼はこれにより天下人の跡取りとして決まった人生であったはずであったのだが・・・肝心の秀吉の命は尽きようとしていた。秀頼の行く末を心配しながら秀吉は62歳で没する。その後、政権のナンバー2であった徳川家康は天下取りへの野心を露わにして、反徳川の勢力と1600年に関ヶ原で激突した。この戦いで勝利したことで家康の天下はほぼ決まり、後は弱体化した豊臣家が大坂城に残った。そこから大坂の陣で豊臣家が滅亡するまで15年の歳月がある。関ヶ原の戦いでは秀頼には関係のない「私闘」として豊臣家へのお咎めはなかった。だが、結論から言えばこの時に「秀頼の号令の下」に家康を打倒するべきであったのだ。秀頼の出陣を母親である茶々が阻んだのは「先見力の不足」と言えなくもないが、女性としての戦国の世を生き抜く限界も感じさせる。世は豊臣の世から徳川の世へと大きく移り変わろうとしていた。そんな中にあって、秀頼を養育しながら只管に「家康の死」を待ち続ける茶々は徳川政権からは「目の上のたんこぶ」のような厄介な存在であっただろう。甘やかし過ぎで秀頼を武将として養育することに失敗している点、プライドが高くて現実を直視できなかったという点も否定できない。後の大坂の陣でも出しゃばり過ぎで、真田幸村等諸将に少なからず「煙たがられ」それが指揮系統の混乱に繋がった点も見過ごせない。繰り返すが彼女は生涯に「三度の落城」を経験している。一度目の落城は「父親の命を奪った」。二度目の落城は「母親と義父の命を奪った」。最後の落城は「彼女自身と最愛の息子の命を奪った」。これは乱世の戦国の世においても非常に稀な事であり、その記憶が生涯彼女の行動に何らかの悪影響を与えたことは想像に難くない。落城の恐怖心が冬の陣での和解に動くことになるが、結局家康の策略に嵌り堀を埋められて大坂城は裸城にされてしまった。百戦練磨の家康とそのブレーンが集う徳川幕府にお姫様育ちの茶々が徒手空拳で立ち向かうには無理があった。戦国の時代に女性として政権の中枢を担う男性の近くに生を受けたが故に「時代に翻弄され続けた生涯」であった。享年49歳。浅井家の血筋自体は、茶々の下の妹のお江により徳川政権下で存続していくのである。現在の天皇家にも浅井家の血は受け継がれているのである。
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